2015年10月29日

ネタ話『NATROMさんのブログに現れた「傍観者」氏の芸風をヒントにしてニセ科学批判批判の記事を書いたブロガー』

 そのニセ科学批判批判的なブロガーであるAさんが、いつもの日課として「世のニセ科学批判者達の活動をネガティブな視点で評している記事はないものか」と思いつつネット上を探索していると、NATROMさんのブログのコメント欄に2015年5月13日から登場している「傍観者」氏のコメント群を発見しました。
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/00131123#c1431525594
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/00131123#c1433424008
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/00131123#c1433429712
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/00131123#c1433436380
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/00131123#c1433442496

 「傍観者」氏のコメント群を読み終えたAさんは、大いに感心しました。「なるほど、このようなニセ科学批判批判の仕方があったのか」
 「たった数個のコメントで世の全てのニセ科学批判者達に勝ってしまうという、とてもお得な芸風ではないか」
 「私も感心している場合ではない。あの芸風を自分のブログに採り入れて実行せねば」

 さっそくAさんは、新たな記事を書いて公開しました。
 「今日から私は、ニセ科学批判者達の主張に対するカウンターの情報を数日にわたって披露する」
 「なお、私の支持者ならばともかく、ニセ科学を批判している者達のコメントは、一切不要である」
 「私の主張にツッコミどころがあったとしても、ニセ科学批判者達はぐっと堪えて沈黙を保っているように」
 「以上である」

 その記事を公開した後、Aさんはニセ科学批判批判の記事を数日にわたって公開しました。
 その間、ニセ科学批判者達からのコメントは一つもありませんでした。

 Aさんは、不満の思いを記事に書いて公開しました。「この私が忙しい時間を割いてニセ科学批判批判の記事を何度も投稿しているにもかかわらず、世のニセ科学批判者達のリアクションが一切ないとは、どういうことか?」
 「ニセ科学を批判している者ならば、もれなく全員が私の記事に反応するべきだ」

 それを偶然に聞いていたニセ科学批判者のBさんは、疑問を呈しました。「たしか、数日前のAさんはニセ科学批判者達のコメントを欲していないような主張を行っていたはずですが、それを今は取り下げるということでしょうか?」

 それを聞いたAさんは、「やっと反応してくれるニセ科学批判者が現れたか。私は待ちくたびれたぞ」と思いつつ、Bさんに向かって駄目出しを行いました。

 「わざわざネットの片隅で地味に運営している私の過疎ブログにコメントを寄越すとは、Bさんは余程の暇を持て余しているようだ」
 「Bさんに限らず、他のニセ科学批判者達も暇がありすぎるのだろう」
 「なにしろ世のニセ科学批判者達は、自分にとって気に入らない他所の議論を見つけると、その場に乗り込んで『これでもか』という程のネガティブなコメントを投稿し続けるのだから」
 「そうやってネット上でネガティブなコメントを公開し続けるくらいならば、もっとリアルの世界で出来ることがあるはずだ」
 「リアルな世界で何ら生産的な活動を行わず、ただネット上で他人の主張をネガティブに批評して自己の満足を得るニセ科学批判者達の姿を見ていると、私はガンダムのデギンさん風の台詞を言いたくなるのである」
 『貴公らは、自然科学に対するルサンチマンのシャッポだな』

 「なお、このように私から評価された世のニセ科学批判者達は、次のようなリアクションを見せてはいけない」
 『ええと、ルサンチマンのシャッポとは、一体どういう比喩の仕方なのか?』
 『まあ今は、その比喩を受け入れてあげましょう』
 『ルサンチマンのシャッポのニセ科学批判ぶりを、傍観者のあなたは狭い書斎の安楽椅子から見ていてください』

 その後もAさんは、駄目出しを述べました。
 「貴公らがネット上に公開している記事など、誰一人として読んでいない」
 「一般の市民達は、全く興味を持っていないからだ」
 「ニセ科学がどうの、マトモな科学がどうのと言われても、世間の人々は、『私達の日常生活には何の関係もない話です』という感じで捨て置かれてしまうのだ」
 「そんなことよりも、世間の人々は貴公らの物言いに対して『上から目線』というものを感じ取り、自分自身でもよく分からない反発の情が思わず募ってしまうのだ」
 「一度でも反感を覚えた世間の人々は、もはや貴公らが何を言っても聞き入れてはくれないのだ」

 「よって、ニセ科学問題を解決する一番の方法とは、貴公らが上から目線の物言いをやめることであり、一斉に引退を表明することであり、どんなにニセ科学推進者達がネット上でブイブイ云わしていたとしても沈黙を保って余生を終える、という結論になる」

 「なお、これを聞いた貴公らは、次のようなリアクションを見せてはいけない」
 『ええと、今の話はAさんの個人的な気持ちを【世間の人々の気持ち】として話されたわけですよね?』
 『あるいは、Aさん御自身とAさんの意見に賛同している人達の気持ちを【世間の人々の気持ち】として話されたわけですよね?』
 『どちらにしても、そのような「太宰メソッド」は使い方を誤ると自分の発言の信頼性が疑われてしまう場合がありますので、ご注意を』
 『もっとも、「そのとおりだ! 先ほどの私は、自分で自分の信用を落とすという芸を披露したのだ! どうだ!」と仰られるのならば、なるほど、少なくとも私達に対しては成功したと言えるでしょう』

 Aさんは、続けて言いました。
 「とにかく世間の人々は、ニセ科学批判者達が見せる上から目線の態度に反感を抱くのであり、主張の内容で是非を判断することは皆無である」
 「リアルな世界で隠遁生活に入ることが出来ないのであれば、せめてネット上だけでも沈黙の態度を保っていたまえ」
 「そうすれば、世間の人々からは次のように評価されるだろう」
 『ああ良かった、今後は、読んでいて気分が悪くなるような文章を見なくて済みます。ありがとう、沈黙してくれた上から目線のニセ科学批判者さん達』

 「もちろん、今後も貴公らはネット上でニセ科学批判の活動を行っても良い。傍観者である私には関係のないことだ」
 「傍観者の私としては、遠くの高みから貴公らの活動を俯瞰して好き勝手に批評するのみである」
 「私からのアドバイスは、以上である」
 「聞き終えた貴公らは、リアクションのコメントを投稿してはいけない……。絶対に、リアクションのコメントを私のブログに投稿してはいけないのだ!」

 言い終えたAさんは、「これで多くのニセ科学批判者達が反論してくるぞ。安楽椅子から物申すような傍観者の目線と、ひたすら反感を覚える上からの目線を織り交ぜるという、高度なニセ科学批判批判の記事だぞ。スルー出来るはずがないぞ。今すぐに、私のブログのアクセス数は大幅アップを達成するのだ」と思ってワクワクしました。
 しかしながら、Aさんのブログに多くのニセ科学批判者達は現れませんでした。

 というのも、他のニセ科学批判批判ブロガーであるCさんが、「私は科学の考え方を尊重すると同時に、科学リテラシーが低い人達の心情にも寄り添うことが出来るという心の広い中立の論者ですと名乗った後、自然科学に対してルサンチマンを剥き出しにしながらdisり倒してドヤ顔を決める」という芸風の記事を披露していたのです。

 多くのニセ科学批判者達はCさんの記事に対するツッコミで忙しく、Aさんの記事にツッコミを入れる暇がなかったのです。
 それを知ったAさんは、失望しました。
 「今の私の心境は、絵画の『イカロスの墜落の風景』に登場するイカロスのような状態だ」
 「結局、私のブログに残されたものといえば、ニセ科学問題を知らない人ですら読んでいて気分が悪くなる上から目線の記事と、ニセ科学問題に日々直面している人々の気持ちを全く量れていないお気楽な傍観者目線の記事だけであった」

 「ただ自分の信用を落としただけに終わったわけだが、これを嘆いても仕方がないことだ」
 「なぜに私は、このような芸風を採り入れる前に結果を予測できなかったのであろうか? それについて、今から思索を集中させるべき時なのだから」

 言い終えたAさんは、引退を表明してネットの果てにあると言われている「ニセ科学批判批判的な夢幻郷」を目指して旅立ちました。

 以上、「NATROMさんのブログに現れた『傍観者』氏の芸風をヒントにしてニセ科学批判批判の記事を書いたブロガー」というお話でした。

2015年10月28日

「もしも『Ζガンダム』のクワトロさんとカミーユさんが、ありえない主張の仕方で一般市民の支持を得ようとする自称中立の論者の実在性について語ったら」と考えました

 クワトロさん:「このネット上には、一般市民に向かって次のように主張している自称中立の論者たちが居るはずだ」

 【クワトロさんが想像する自称中立の論者たち
 Aさん:『いわゆる科学的に正しい態度についてですが、誰かの主張を聞いたときに鵜呑みにして信じ込むのではなく、それって本当かなと疑ってみることが大切なのですね』

 Aさん:『ちなみに私自身は、Bさんの発言を鵜呑みにして信じ込んでいます。なにしろBさんが行う主張は、私の感覚にことごとく合っているのです』

 Bさん:『いわゆる血液型性格判断についてだが、頭ごなしに否定する態度は駄目である』
 Bさん:『もちろん、血液型性格判断に否定的な論文は幾つかある』

 Bさん:『しかしながら、それらの論文も絶対に正しいというわけではなく、単なる仮説にすぎない
 Bさん:『そもそも、現代科学は仮説の積み重ねにすぎない

 Bさん:『主流派の科学者たちが支持している説は、どれもが「現時点における、もっとも確からしい説」というだけのことである』

 Bさん:『当然ながら、今の正しいとされる物理学が未来には全て否定されており、残らず消えており、まったく新しい物理学が出来上がっている可能性も、ゼロではない』
 Bさん:『このように、絶対に正しい科学などというものは存在しない』

 Bさん:『よって、血液型性格判断を否定するような態度は間違いであり、「今は怪しい説であっても、将来的には正しい説になるかもしれない」という感じで中立の態度を保つべきである』
 Bさん:『これこそが、科学的に正しい態度といえる』

 Aさん:『とても説得力がありますね。Bさんの意見は正論です。鵜呑みに信じて良いですね
 Aさん:『あれはニセ科学だとか、これはニセ科学ではないだとか、そんな感じで断言する態度はおかしいですよね』

 Aさん:『それよりも、「今はニセ科学かもしれないが、将来的にはマトモな科学になるかもしれないから、結論は出さずに保留にしておこう」という中立的な態度こそが、科学的に正しい態度なのですよね』

 Aさん:『というわけで、「ニセ科学問題どころか、科学そのものが難しくてよく分りません」という一般市民の皆様におかれましては、常に中立の態度を保って発言する私たちの活動こそが絶対に正しい科学だと鵜呑みに信じて支持してくださいね

 Aさん:『大丈夫です。私たちは常に中立の位置から発言を行いますので、一般市民の皆様を完全に間違った科学の考え方に導くことなどありえません』

 Bさん:『その通りである。いついかなるときも中立の位置で発言する我々は、100パーセント間違った発言を行うことなどありえない

 Aさん:『中立の位置から発言する私達は、完全な間違いがないので、いかなる議論でも完全に負けるということはなく、完全に安全な立ち位置です』

 Aさん:『それでは皆様、ご一緒に。……我が中立の位置はあっ!』
 Bさん:『ネット上で最強っ!』

 クワトロさん:「このように語っている自称中立の論者たちが実在するはずだ。それをネット上で探せ、行くぞ!」

 カミーユさん:「居るわけないだろ、そんな主張の仕方で一般市民の支持を得ようとする自称中立の論者なんて!
タグ:ガンダム

2015年10月25日

shsk_suzukiさんのツイートから常勝のニセ科学批判批判への道を模索する

 ある日、私は次の二つの記事を発見した。
https://twitter.com/shsk_suzuki/status/657588802320371712
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/shsk_suzuki/status/657588802320371712

 気になった点を以下にメモしておく。
(shsk_suzukiさんのツイートより引用)
 >身体の事を調べていると、一見すると「スピリチュアル」なものに接近する

 私:「ふむふむ、この部分はshsk_suzukiさんの個人的な体験談のようだ」

 (shsk_suzukiさんのツイートより引用)
 >というか、そうレッテルを貼られているものこそ実は科学的だったりする

 私:「ふむふむ、この部分はshsk_suzukiさんの主観を語っているようだ」

 (shsk_suzukiさんのツイートより引用)
 >ニセ科学批判の奴らの馬鹿さ加減がよく分かる

 私:「ふむふむ、この部分はshsk_suzukiさんの価値観を語っているようだ」

 (shsk_suzukiさんのツイートより引用)
 >あいつら絶対スポーツ出来ないよ

 私:「ふむふむ、この部分はshsk_suzukiさんの推測を語っているようだ」

 (shsk_suzukiさんのツイートより引用)
 >身体と向き合わないから

 私:「ふむふむ、この部分はshsk_suzukiさんの推測の根拠を語っているようだ」

 私:「このshsk_suzukiさんのツイートを私にとって分かりやすいものに整理すると、以下のような感じになるだろうか?」

 ・……自分は身体のことに興味を持って色々な情報を調べているのだが、ときには世間から「スピリチュアル」と呼ばれている情報を目にすることがあったりする
 ・その世間から「スピリチュアル」と呼ばれている情報についてだが、自分は科学的な情報に思えた
 ・よって、ニセ科学批判者達は馬鹿な者達だといえる

 ・なぜならば、『世間から「スピリチュアル」と呼ばれる情報』を、自分は科学的な情報に思えたからである
 ・『世間から「スピリチュアル」と呼ばれている情報』を科学的な情報に思えない者は馬鹿だといえるし、それにぴったり当て嵌まるのがニセ科学批判者達だったりする

 ・ちなみに、「ニセ科学批判者達は絶対にスポーツが出来ない者達である」という結論も、同時に導き出すことができる
 ・なぜならば、『世間から「スピリチュアル」と呼ばれる情報』を科学的な情報に思えた自分は、身体のことについて向きあっているからだ。つまり、
 『身体のことについて向きあっている者ならば、絶対にスポーツが出来る』
 『ニセ科学批判者達は、身体のことについて向きあっていない』
 『ゆえに、身体のことについて向きあっていないニセ科学批判者達は、絶対にスポーツが出来ない』
 ・この結論は、自分の主観に合っている結論だし、論理的にも正しい結論だといえるだろう

 ……なるほどである。
 前フリとして、「個人的な体験談」を披露し、次にメインの「ニセ科学批判批判」を実行し、その根拠として「主観による推測」を提示して締めくくる……という方法で、世の全てのニセ科学批判者達に勝ってしまったのだ。
 これは良い方法を知った。今後の参考にしておこう。(とはいったものの、この方法にはどこかに大きな穴がありそうな気がしてならないのだが、その解決は未来の事とする)

ネタのお言葉『如何が我が身の罵倒芸を遼せずして他人のもっさりしたdisを発露すや』

 「如何が我が身の罵倒芸を遼せずして他人のもっさりしたdisを発露すや」とは、あの空海が書いたとされる「三教指帰」の「如何が己身の膏肓を遼せずして他人の腫脚を発露すや」の罵倒芸版である。

 解説:ネット上で行われている議論を幾つか眺めていると、その場の全ての者がもっさりした罵倒芸を披露しているにもかかわらず、
 「僕のdisが一番だ!」などと言ったり、
 「私のdisが優れているわよ!」などと言い返したり、
 「我がdisはぁっ! ネット上で最強!」などと叫んだり、
 「ふふふ、もう一度言う。俺はdisの天才だ!」などと謎の自信を見せたり、さらには、
 「ああ、君のdisは愚かさがにじみ出ているねえ。次こそは、もう少し賢いdisを返してもらたいものだねえ。もっとも、愚かな君には56億7千万年かかっても無理だろうけどねえ」
 などと述べる論者たちの姿を目撃することがある。

 初めは興味深々だった聴衆も、もっさりした罵倒芸の連続に厭きれて去ってしまい、後に残るはリソースの限界に挑む当人達のドヤ顔競争だったりする。
 「どやあっ!」『どやあっ!』【これでもかあっ!】「痛たたた、顔がつった!?」

 自分の罵倒芸が一番に優れているとアピールしながらも、実はそうでもないという論者が他人の罵倒芸をあれこれ批評するとは、一体どういうことなのか。

 「そういう芸なのだ」と言われたらそれまでだが、やはり何かが違うとは思わないだろうか。
 そう、他人の罵倒芸を批判する前に、自分の罵倒芸を今一度見直すことが大切なのだ。

 たとえば、「煽り方が上手くできているだろうか?」とか、
 「議論の途中で自分の主張が誤りであると判明した際に、人格攻撃と論点のすり替えと後釣り宣言を繰り出して議論をうやむやに持ち込むことができているだろうか?」とか、
 「議論の相手に対して常に見下した態度を披露できているだろうか?」とか、
 「無礼な態度を非難されても意に介さずに無礼を続ける自分が居るだろうか?」とか、
 そのような感じで自らの罵倒芸を細部に至るまでチェックするべきなのだ。

 その作業を終えた後に、他人の罵倒芸を批判するべきなのだ。
 そうすれば、相手が納得するか否かはともかく、聴衆からは、
 「なるほど、この人の評には説得力がある。この人の罵倒芸に外れはない。しばらく追いかけて鑑賞する価値はありそうだ」
 という声が多く上がる可能性が高くなる。

 逆に考えると、自分のdisに自信がない罵倒芸の論者ほど、他の論者に対してより攻撃的な駄目出しを行うとも言える。

 読者の皆様も、次のような疑問を抱くことが過去に一度くらいはあったはずである。
 例:「あの無礼な口調の論者さんって、ネット上で駄目な主張を行った人に対して必要以上の見下した物言いを行うけれど、いったい何を考えている論者さんなの?」

 「いくら相手の人が駄目な主張を行ったからといって、面識のない赤の他人に向かってあれほど口汚く罵る態度をネット上で披露し続けていたら、聴衆から大いに嫌悪されることくらい事前に予測できるはずではないの?」

 「もしかして、支持者の数を増やすことが目的ではなく、『自分で自分の信用を落とすこと』を目的として無礼な態度をネット上で見せ続けているのかしら?」

 そのような疑問を抱かせる論者の姿を見かけたときは、「今すぐに諫言してあげたい! 礼儀の重要性を、嫌というほど教えてあげたい!」という気持ちをぐっと堪え、
 「如何が我が身の罵倒芸を遼せずして他人のもっさりしたdisを発露すや」という言葉を思い浮かべつつ、
 他山の石として用いてあげよう。
タグ:他山の石

2015年10月20日

ネタ話『ruhiginoue氏のブログ記事を読んだ後、悪しき相対主義の記事を公開してアクセス数の増加を図ったニセ科学批判批判ブロガー』

 そのニセ科学批判批判者であるAさんが、いつものように「ニセ科学批判者たちの活動をネガティブに評している記事はないものか?」と思ってネット上を探索していると、
 ruhiginoue氏が運営している「楽なログ」というブログの記事、
 『「ニセ科学批判」という「コンプレックス商法」』 を発見しました。

 読み終えたAさんは、自分のブログに戻って感想の記事を書きました。
 「ruhiginoue氏のニセ科学批判批判は、まだまだ甘い。不満な点を、以下にメモしておく」

 ・ruhiginoue氏は、「もちろん、正しい知識や判断は必要だけど」と言っているが、
 何をもってして「うむ、正しい知識である」と判断したり、「うむ、正しくない知識である」と判断されているのであろうか?
 その判断基準を具体的に説明していないので、説得力が今ひとつになっている。

 ・ちなみに私ならば、「何をもってして正しい知識と判断できるのか?」「その判断基準は、人それぞれである」
 「その証拠に、表面的には意見が鋭く対立しているように見える議論があったとしても、各々の論者は、『あなたの知識は間違っている! 私の知識こそが正しいのだ!』という言葉を異口同音に述べていたりするものだ」
 「そう、すべては相対なのである」と具体的に説明することができる。

 ・ruhiginoue氏は、「しかも、もともと科学に疎い人は、その批判が正当であるかの判断ができない。そうなると単純化され煽り説得するようにされたら、鵜呑みにしてしまう。これでは、ニセ科学に騙されるのと構造が一緒である」と言っているが、これでは言葉足らずなので駄目である。

 ・この私ならば、「もちろん、この記事における主張も鵜呑みにせずに疑ってかかるべきある。この記事も、実は単純化された煽りで満ちており、『ニセ科学問題を詳しく知らない一般の人たちを誤った結論に誘導することを目的として作成された文章の可能性もゼロではない』という感じで、疑うべきである」という言葉を続ける。

 ・ニセ科学批判者たちの活動は相対化できているのに、自分の記事を相対化できていないとは何事か?

 Aさんは、続けて言いました。
 「ruhiginoue氏は、ニセ科学批判者たちの活動はニセ科学推進者たちの活動と似たような悪しき面があるから気をつけろと聴衆に警告すると同時に、自分一人だけが遠く離れた高い場所に位置しており、下界に居るニセ科学批判者たちの行動を俯瞰しているから客観的な批評ができるのだと聴衆にアピールしている」

 「ようするに、絶対的な傍観者として振舞ったわけであるが、色々な穴を残しているために、『はてなブックマーク』では散々な評価で終わっている」
 はてなブックマーク - 「ニセ科学批判」という「コンプレックス商法」 楽なログ

 「いや、ruhiginoue氏に限らず、ニセ科学批判批判の初心者にはありがちな失敗の仕方ではあるのだが」

 「ニセ科学批判批判の初心者にもかかわらず、無理に斜に構えて中立の論者を装って自分の一方的な思いをつらつら述べたところで、結局はニセ科学批判者たちに細かいながらもチクチクと痛みが蓄積するツッコミを入れられて、現実の自分の立ち位置が如何に脆い場所であるかを思い知らされて、哀しみに佇むのである」

 「そのような内省に浸る思考など、とっくに私は捨てました! ……というベテランのニセ科学批判批判者ならばともかく、そうでもない初心者ならば、ややこしい文章の作成を避けて、ただ単に『ニセ科学とマトモな科学は相対的に同じです(^-^)♪』と言っておれば良い」

 「なにしろ、この一言を述べただけで、過去と未来を含めたすべての時間と、パラレルワールドも含めたすべての空間に存在するニセ科学批判者たちに勝ってしまえるという、万能の言葉なのだから」

「以上で、『悪しき相対主義的な立場を採用する論者にとって正しいニセ科学批判批判とは何ぞや?』という講義を終えるとする」

 「私の主張に穴があると言うのならば、指摘してくれたまえ。悪しき相対主義も知らない科学リテラシーの低い諸君にできるものならば」

 言い終えたAさんは、「これで、多くのニセ科学批判者たちから総ツッコミが来るぞ。私のブログのアクセス数は、大幅に増えるのだ」と思ってワクワクしました。
 しかしながら、ニセ科学批判者たちは一人も現れませんでした。

 というのも、他のニセ科学批判批判者であるBさんが、
 「ニセ科学批判者のブログの記事を慎重に読み込んだ私が、今からツイッター上で隙のない批評を、どんどん公開します!」
 と前フリを述べた後、【誤読が満載の批評】を片っ端から公開して、
 「まったく、これだから世のすべてのニセ科学批判ブロガーが書く記事は信用できないんですよね!」と述べて落とすという芸を披露していたのです。

 ニセ科学批判者たちはBさんの芸にツッコミを入れることで忙しく、Aさんの悪しき相対主義にツッコミを入れる暇がなかったのです。

 それを知ったAさんは、がっかりしました。
 「このような結果になるのであれば、自分の貴重な労力を費やして長文の記事を仕上げるべきではなかった」

 「もっと、短い記事を書くべきだった」
 「そう、たとえば漫画の『北斗の拳』に登場する、サウザーさんの配下のモヒカンとケンシロウの遣り取りのように」

 【短い記事の例】
 モヒカン:「科学思考の者たちよ! 襟を正せ! 悪しき相対主義さまの、ご視察だ!」
 モヒカン:「すべては、相対だ〜!
 モヒカン:「むむ!?」
 モヒカン:「そこの、ニセ医学批判ブロガー! お前のエビデンスを重視した論も、相対化されたいかあ!」
 相対化された論:【この世に、ニセ医学なんかありません】【あるいは、すべての医学がニセ医学といえるのです……ドヤっ】
 モヒカン:「ヒャッハッハ、どうだまいったか、『皆さんと違って私は大所高所から世俗を俯瞰している視野の広大な論者です』という雰囲気をアピールしている論者であっても、この俺様から見れば、
 『むっちゃ狭い井戸の中から偏見に満ちたコメントを発表しているとんだお笑いぐさのカエル』の姿に見えちゃったりするのだ!』
 モヒカン:「というわけで、すべては相対だ〜!」
 ケンシロウ:「……お前の言うとおりだ。すべては相対だな」
 ケンシロウ:「公の場で他人の論を批判したときは、自らの論も他人から批判される……。これは、絶対だ
 モヒカン:「なんだって? そんな理不尽なことがあってたまるか、この俺様が他の論者たちをdisるのは許せても、他の論者たちが俺様をdisることは許されないんだって、うわちゃあ〜?」「がっちょーん!」

 「……という感じの記事で済ませていたら、今もお気楽な思考で居られたのに」

 『教訓:この話は、労力を費やして仕上げた自慢の記事であっても、読者たちが大きな反響の声を上げてくれるとは限らない、むしろまったく反応がないままに終わってしまう場合が多いという現実を明らかにしています』
(2016年7月の追記)
 このネタ話の中で、【この世に、ニセ医学なんかありません。あるいは、すべての医学がニセ医学といえます】
 という、「読者の笑いを誘う文章」を私は書いていたわけですが、NATROMさんのツイッターを読んでいると、
 otoseyo氏という御方が似たような感じの文章を公開されていました。
 なとろむ(@NATROM)-「otoseyo」の検索結果 - Twilog
http://twilog.org/NATROM/search?word=otoseyo&ao=a
 (以下、otoseyo氏のツイートからの引用です)
 >『「ニセ医学」に騙されないために』NATROMは、日本の医療行為そのものがニセ医学だという疑いを晴らすことのできる本ではなかった
 >つまり科学的ではなかったということ
>世界中のデータを読み込み、特にがん治療において患者のための医療をアドバイスする医師の本にはるかに及ばない

 このotoseyo氏のツイートの場合、あの近藤誠氏のトンデモな主張を鵜呑みに信じているわけではなく、風刺するために、わざとこのような言い方をした可能性もゼロではないわけですね。

 「今後のotoseyo氏におかれましては、近藤誠氏を風刺するツイートを大々的に展開するでしょう」と予言しておきます。(この予言が当たる確率は高いと信じています)
タグ:北斗の拳

2015年10月19日

ネタ話『ニセ科学批判者達は自分達で決めた枠に嵌らないからニセ科学を叩いているのだという主張を目撃して感心したブロガー』

 そのニセ科学批判批判的ブロガーであるAさんは、ruhiginoueさんによって公開された次のツイートを読んでいました。
https://twitter.com/ruhiginoue/status/633192935845031936
 (以下、引用)
 >ニセ科学批判をしている理科系連中の言動は体育会系の虐めに似ている
 >自分らがやっている枠にはめこんで、これが絶対に正しく他はダメだとやる
 >これは部外者に、ボクシングならリングに上がれとか、野球部なら千本ノック受けろとかいうのと変わらず、こんなのは競技とは関係がないし、喧嘩でもない

 読み終えたAさんは、大いに感心しました。
 自ブログに戻ったAさんは、さっそくニセ科学批判批判の記事を書いて公開しました。
 「日頃からネット上におけるニセ科学批判者達の活動にモヤモヤしていた私だが、これでスッキリした」
 「ruhiginoueさんの見解は、私の思考に一筋の光を与えてくれた」
 「そうなのだ。世のニセ科学批判者達は、自分達で勝手に決めた枠に嵌まらないことが気に入らないという、ただそれだけの理由でニセ科学を叩いていたのだ」
 「そのような理由で批判された科学リテラシーの低い一般市民達が、素直に反省して科学の勉強に勤しむなどと、本気で思っているのだろうか?」

 「自分達が設定した枠に嵌らない相手の主張は駄目な内容に決まっている、だから好き放題に批判しても良いのだ、などという考え方は捨てるべきだ」
 「世のニセ科学批判者達は、『すみませんでした。自分達で勝手に設定した枠に嵌まらないからという理由のみで、気にくわない相手を片っ端からdisっていました』という感じで大いに反省し、今後は沈黙の態度を保つべきだ」

 「そういうわけだから、『いや、ニセ科学を声高に叫んでいる側が科学の土俵に上がり込んでいるのです。我々としては、『あれはニセ科学ですよ。マトモな科学だと思わないでくださいね』という感じで一般の皆様に注意を喚起しているのです。その辺の事情を理解したうえで、我々に駄目出しを送ってくださいね』などという反論は、自動的に却下となる」

 「以上で、本日のニセ科学批判批判を終えるとする」
 「私の言い分に瑕疵があるというのならば、私のブログのコメント欄で指摘してくれたまえ」
 「さて、できるかね? 自分で勝手に設置した狭い枠の中からしか意見できない、世間知らずで的外れなニセ科学批判者達よ」

 言い終えたAさんは、「これで、多くのニセ科学批判者達が激怒のコメントを投稿してくるぞ。そのときに私はクールな態度であしらってみせるのだ。そうすれば、一般大衆から尊敬の目で見てもらえる」と思ってワクワクしました。
 しかしながら、多くのニセ科学批判者達は現れませんでした。
 というのも、多くのニセ科学批判者達は、2015年の現在になっても相変わらずブイブイ云わしているニセ科学推進者のサイトに対するツッコミで忙しく、Aさんの主張は路傍の石にすぎないので捨て置こうと判断したのです。

 それを知ったAさんが失望していると、代わりに冷徹なネットモヒカン族が現れて、冷たいツッコミを『これでもか』と送ってきました。
 全てを傍観していたROM達も、「とんだヤブヘビでしたね。まあ、Aさんの自業自得ですね。私達にできることはありません」という冷たいリアクションを見せました。

 二重の冷たい視線に晒されながらAさんは嘆きました。「なんてことだ、クールな自分を一般大衆に印象付けたいと思って実行したニセ科学批判批判が、違う結果をもたらすとは」

 『教訓:この話は、最初に完璧だと思って定めた枠であっても、のちに全く駄目な枠だったと自覚して哀しみに暮れることはネット上の言論活動において多々あるという現実を明らかにしています』